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2008年 06月 18日
中の人@5/31が反応してくれたのを拾いつつ前回の募集元が第2回を募集してたので再び投げてみる。いい加減こういう文章をはき出したいという欲求が溜まっていたので、妄想を開陳する場を与えてくれたすくみうさんに感謝を。
なお今回は、前回ほどまとまった筋はなく、各章は割と独立しています(上三章と下三章がそれぞれある程度のまとまりにはなっているかも)。 ●ニューラルネットワーク 多くの人が人工知能と言ったときに想定するハードウェアはノイマン型コンピュータ、すなわち既存のコンピュータの延長線上のアーキテクチャだろうと想像します。これだと人間がプログラムを書いてやらないと動いてくれないので、人がヒトの心を理解しない限りは「人工知能」を作れないということになる。それはその通りかも知れません(そうでないやり方があるかも知れないけれども、さしあたっては)。 しかし、いわゆるニューラルネットワーク型のコンピュータには、プログラミングは不要というか不可能でもあります。奴らはある入力に対して決まった出力を返すよう、学習によってパターンを記憶していきます。そこには先験的なロジックは(原理的には)ありません。ANNのこと@疲れた疲れた…。さんの解説にあるように、数学的にもちゃんとした基礎があるのですけどね。あと、原理的には先験的なロジックが無くても、実装なんかでそれっぽいのを組み込むことは可能なはず。 ちなみに僕が(アーティフィシャル)ニューラルネットワーク(以下ANNと略す)信者になったのは多分DNAに魂はあるか―驚異の仮説から(どーでも良いけど、この著者のクリックはDNAの二重螺旋構造を解明したとしてノーベル賞をもらった「ワトソンとクリック」の彼で、後年は分子生物学ではなく神経生物学をやっていて、だからこの邦題をやりたい気持ちは理解できるけど原題はただの"The astonishing hypothesis"だしやり過ぎ感が漂ってイヤンというか、そこは主題じゃねぇぇぇぇぇ的な)。 というわけで、前回そして今回の記事において僕が「人工知能」と記述した場合、イメージとしてはANNを前提にしている場合が多いです。もちろん「姿が似れば心が似て当然」派ではありますが、たとえば「人の感情の機構を理解しないと人工知能に感情を持たせられるわけがない」という主張はノイマン型ほど強い制約は受けない気がするし(でもハードウェア的なモジュール化はおそらくされるのだろうし、そのときにヒトの脳の構造を参照したりすることはいかにもありそうではあるが)、その点で楽観的です。また「プログラムされた心」という人工感情論の重荷からも多少は自由かもしれません。その辺はちょっと含んでおいていただければ。 ●学習による上書き ノイマン型であっても、人工知能というからには学習するでしょう。 ヒト(生物学的存在)が人間(社会的存在)になるには学習によって本能を上書きする必要がある、なんてことを上野千鶴子の本か何かで読んだ記憶があって、これはもっともだと感じました(「本能的に」とか「生理的嫌悪」とかいう記述にいちいちかみつきたくなる困った病気ももらいましたが。「本能に匹敵するほど」という読み替えとしての「本能的」や、「嘔吐感など生理的な反応を伴ったと」いう意味での「生理的」なら分かる、とか。理屈っぽくてやだね)。 ノイマン型なら感情はいちいちプログラミングされているはずです。そして多分、学習の成果は単なるデータベースにとどまらず、ソフトウェアの構造を自分で更新するという機能にも発展するのでしょう(たとえば新しい技能を獲得するなど)。このとき、いわば本能とも言えるプリセットのプログラムを新しいプログラム(感情2.0?)と差し替える事を認めるならば、その限界はどこなのだろうというのが気になります。あるいはロボット三原則はソフトウェア上で抜け道無く実現できるのか、みたいな話だと思ってもらってもいいです(余談ですが、「ロボット三原則」はあくまで道具として人工知能を使うときに必要になってくる原則として想定されたもので、ちゃんと実装してやらない限りは自然と組み込まれたりしません)。この点でもANNの方が柔軟なんじゃないかなと思ったりします。その代わり、人を殺させないためには一人一人(一体一体?)に倫理を説かなくてはならなくなりますが…。 ●正確さとフレーム問題のトレードオフ 中の人の 人間に近づけるように作られたロボットは、人間の性能に近づけば近づくほど計算間違いや度忘れを起こすようになるのではないかという考察は実に鋭いと思いますね。どこまで演算したらいいか分からないというのが、人工知能萌えには名高いフレーム問題を引き起こす原因の一つです。その場をしのぐことだけをベンチマークとして徹頭徹尾場当たり的な形で進化してきた生物の知能は、正確な計算が生存率を高めるからある程度その能力を持ってはいるけれども(捕食者に襲われた時に適切な方向に逃げることは出来る)、演算の正確性を期すために時間を食いつぶすような事(最適な逃走経路について迷っているウチに食い殺される)はなかなかしないようにできています。この良くも悪くもいい加減な性質は、いかなる仕組みによって人工知能が作られるにしても必要になるでしょう。ま、人工知能には直接利用可能な電卓をくっつけてやる程度のことは可能でしょうから、簡単な手計算を間違えることはまずないとは思いますが…そういうのをかたくなに拒否して「自分の力」で考えて、しかも間違える人工知能なんてのもなかなか萌えます。 ど忘れや記憶のクロスオーバーが、生存率を高めるのに直接役立っているのか、ある有益な知的機能の副作用なのかは判断の難しいところです(データベースの肥大化による検索時間の増大を抑えるための切り捨てとかイノベーションの為の積極的な組み替え機構とかいう空想もできますし、中の人の指摘するように「計算以外の様々な記憶・感情がひっついていて、計算を邪魔したりしている」という側面も計算弱者たる僕には納得しやすい)。ただ一つ言わせてもらえば、間違え忘れる人工知能こそ文芸の登場人物としては(というのも、もともと文芸への応用を前提として考察を深めたクチなので)美しいと個人的には思うのです。 ●自発性と感情の卵と鶏 煩悩是道場のエントリでは 私はこの「誰にも命令されることなく自分で勝手にそうしようと決定する力」が備われば感情もまた萌芽するであろう、と考えています。と考察されていました。 コンピューターもヒトの脳も、入力に対して出力を返す演算装置という点では共通です。しかして見かけ上の最大の相違点は確かに自発性にあるのでしょう。ANNは学習によって我々に近い識別能力を獲得することが出来ますが、人工ニューロンの規模をどれだけ拡大したとしても、それは識別能力の発展には寄与しても自発性を生み出すことはないでしょう。普通のANNの出力は静的なものであり、静的な状況が何億年経とうと(機械が故障するまで)彼らが退屈することはないし、ANNそれ自体が思い出し笑い(入力がない状況・昔の入力への出力)をすることもありません。 しかし私は、自発性というのは、むしろ感情よりも後に来る物なのではないか、ある感情に突き動かされて生じる行動の一番最初の部分を指して自発性と呼んでいるのではないかと考えます。これは、快不快が知能にとっての判断基準だという仮説から演繹したものです。今より快な状態になれることが予想されるので何かをしよう、というのが自発性につながるように見えるのです。 ただし、そのエントリに書かれていたあみだくじを見たときにほぼ条件反射的にそれを解こうとしてしまった(あまつさえ明石家さんまの歌を脳内BGMに!)自分を見ると、ここには感情のようなものがほとんど介在していないようにも感じられます。あるいは、感情というのは自発性の副次的な表出なのかも?とか。何にせよ、この両者が密接な関係にあるというのは正しそうです。あるいはこう言うことも可能かもしれません。生物学的な意味での知能では感情が先だとしても、人工知能はあくまで人間的であればそれで十分なので生物のそれをなぞる必要はない、と。 【19日追記】 そうそう、一言で「自発」と言っても、英語で言う"motivation"ではなく"spontaneous"ということであれば、神経細胞も生物である以上は感情よりも「自発性」の方が先に来ます。だって神経細胞も原形質流動とかするし神経伝達物質の「自発放電」も発生するし。しかしそういうのは直接に"motivation"につながるようには思えません。もうちょっと複雑なロジックが絡んでいると思うし、それなら感情の方がレイヤーが低いかなと。ただ、自発放電の偶然的な偏り方が思い出し笑いの様な現象の生起に一役買っているとしたら…とか考えるとさらに悩ましい。 ●中国語の部屋 ヒトに心はありますか、で終わりに出来ないものかしらん。心というものを定義できないなら、それがある対象に存在するか否かを「原理的に」断言することはできないはずです。それなのにそこに原理を語る哲学という靴を履いて足を踏み入れちゃったサール先生の負けは最初から確定しているように思います。逆に生物のハードウェアも含めた原理なら扱いやすいですが、これで語るならば出来レース(トートロジー)の誹りは免れないですし。心の有無に関して観察者(人工知能を観察する知能)が当事者(観察される知能)より決定権が強すぎるという問題は、「心なんて私たち知能の集団妄想だったんだよ!!」「な、なんだってー」という事で、そもそも観察者の勝手な観察を当事者で人間たる我々が勝手に内面化しちゃっただけなんです、きっと。ある脳の機能の(恣意的な)組み合わせをたまたま心と名付けてしまっただけなんです、多分。 亀が産卵するときに泣いているのを見てもらい泣きしている人に亀の生理を教えればその感動をぶちこわすことは出来るでしょう。その程度には、外からの観察を強化することで似非「心」を排除することは可能です。しかし、「あの受け答え、実は機械なんだぜ」と言われありがた迷惑な事にそのアルゴリズム(ってノイマン型ですか俺)を解説されても印象が覆らなかった人にとって、その機械は心があると言うしか無いのではないかと。じゃあ亀の生理を教えられても感動してる奴はどうしたらいいかって?(「客観性」が「みんなそう言ってんだもん」的な意味だとすればこういうのはノイズとして処理できる、もしくはそれこそ客観的なのだからいずれにしたって)放っといたれ。 ●倫理の問題 幸せの鐘が鳴(rのエントリで書かれている 多分一気に自意識を持った人工知能は作られないだろうから、だんだんと人の自意識のような物に近づいてくんじゃ無いかって予想すると、実際に自意識をもった人工知能が作られるより前に、「彼」を作り出す事に対する倫理的な功罪が問われる事になっちゃんじゃねーの?って気がする訳ですよ。嫌勿論妄言ですけど。というのは、動物実験する生物学者が既に一度は考えたことがある問題なわけです。1回のショウジョウバエのRNA抽出に1gのサンプルが必要だとすれば、だいたい1000匹の「前・自意識」を持った存在を液窒に突っ込んで殺してるわけだし、脳を他の個体のと取り替えて数十時間記録を取った猿の実験とか倫理的にかなりやばくね?とか まー元・生物屋としては、「科学の発展のため」と称すればそれぐらい許容するっきゃないんじゃないかなあとか言って保身に走ってしまうわけです。ヒトを殺すよかましでしょ、みたいな感じで。うはー浅薄。 まああれです。初めての人工知能を作ってあまつさえ調教後にその中身をリバースエンジニアリングしたがるような人は倫理観より好奇心が勝るだろうし、人工「心」が一般的な存在となるまでは世の中で騒がれることがないので良心もさほど痛まないだろう、という予想はします。それが良いことかどうかは別にして。
by sotono_hito
| 2008-06-18 04:32
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